「危険への接近」の法理というのは、一言でいえば、「騒音が発生しているところに被害者のほうがあとから (移り住んで) 来た場合には、損害賠償請求権が認められなかったり、損害賠償額が減額されたりすることがあり得る」 という法理だ。騒音公害訴訟などで、たびたび使われる。もしも、原告が、その危険(騒音など)をあらかじめ知っていたとなると、「危険への接近」の法理が適用され、訴えられた側の責任は軽減される可能性がある。
被告、佐賀大学側は、補充的主張で、このような主張を行った。まずは、判決文から引用。
第三 当裁判所の判断
2 当事者の補充的主張に対する判断
(1)一審被告の主張について
(赤は裁判所が被告の主張を述べ、青はそれに対する裁判所の判断)
ア 一審被告は,一審原告(女子大生)が,森が統一協会を批判し脱会を促す発言をすることを予見及び期待し,あえて森と面会しており,森が一審原告(女子大生)の信仰や名誉感情という法的利益を侵害することを承諾していたから,違法性阻却事由が存在する旨主張する。
しかしながら,本件会話に至る経緯は前記認定事実(1)ないし(20)のとおりであり,本件全証拠によるも,一審原告(女子大生)が,森に対し,本件発言をすることについての承諾を,事前に,かつ,明示的又は黙示的に表示していたことを的確に認め得る証拠は存在しないから,一審被告の主張は採用することができない。
イ また,一審被告は,仮に承諾の事実が認められないとしても,一審原告(女子大生)は,森の発言を利用して損害賠償を請求する目的で森に接近し,森の権利侵害行為という危険の存在を認識しながらあえてそれによる被害を容認していたものであるから,「危険への接近」の法理が適用される旨主漲する。
しかしながら,仮に「危険への接近」の法埋が一般論としてあり得るとしても,森は一審原告(女子大生)が所属するゼミの指導担当教員の立場にあり(前記争いがない事実等(2)),一審原告(女子大生)が森と一定の接触を持つことは不可避だったものであり,また,本件全証拠によるも,一審原告(女子大生)において,森のゼミに参加する以前から,森が統一協会に対し否定的見解を有していたことを認識していた事実を認め得るものは見当たらないことに照らせば,本件発言につき「危険への接近」の法理により違法性が阻却されるものと解することはできず,一審被告の主張する事情は,慰謝料額の算定に当たって考慮する余地があるにとどまるものというべきである。
ウ よって,一審被告の補充的主張はいずれも理由がない。
被告(佐賀大学)の補助的主張の箇所をまとめてみると、次のようになる。
@ 原告(女子大生)が、森准教授が彼女の信仰や名誉感情という法的利益を侵害することを承諾していたから、違法性阻却自由が存在する。
A たとえ、その承諾の事実が認められない場合でも、森准教授の権利侵害行為という危険の存在を認識しながら、あえてそれによる被害を容認していたものであるから,「危険への接近」の法理が適用されると主漲した。
被告の補助的主張は、二段階となっている。原告(女子大生)の "承諾" があった場合と、なかった場合の二段階である。 "承諾" というのは、「一審原告(女子大生)が,森が統一協会を批判し脱会を促す発言をすることを予見及び期待し,あえて森と面会しており,森が一審原告(女子大生)の信仰や名誉感情という法的利益を侵害することを承諾していた」 という内容の承諾である。
@の主張は、「承諾があったのだから、違法性阻却事由が存在する」という被告の主張である。裁判所は「(承諾に関しては) 的確に認め得る証拠は存在しない」として、被告の主張を採用しなかった。
「"承諾" があれば、違法性阻却事由 (違法性がしりぞけられる理由) が存在する」という箇所は、私には、少々、理解に時間がかかったところである。たとえば、レイプだと男を訴えた女と、"承諾" があったという男の主張と似たようなものか?(←この箇所は私の疑問である。) もちろん、この場合、男が、"承諾" があったことを証明できれば、レイプだという女の主張は退けられることになるが・・・
Aの主張で、被告は、「たとえ、承諾の事実が認められなかった場合」 にも準備した。被告は、「たとえ、承諾がなかったとしても、森准教授の権利侵害行為という危険の存在を認識し、損害賠償目的で接近し、被害を容認したとして、『危険への接近』の法理が適用される」 と主張した。
裁判所は、「危険への接近」の法理の適用について、二つの理由をつけて、採用しなかった。
@ 原告(女子大生)が森(ゼミ指導担当教員)と一定の接触を持つことは不可避
A 原告(女子大生)は、ゼミに入ってはじめて、森准教授の彼女の教会に対する否定的見解を知った(そのことを知っていて、森准教授のゼミに入ったのではない。)
今回の佐賀大学の信教の自由裁判では、確かに、被告の責任が問われ、わずかばかりの損害賠償が認められたが、大学での宗教の自由が守られたとは、到底、言えない判決だ。まるで、後藤裁判の第一審の判決のようだ。大学側の責任を認めたことは画期的ではあるが、これで、統一教会・カープに対する大学の宗教迫害が終わるとは決して思えない。先はまだ長く遠い気がするが、貴重な訴訟だと確信している。それに関しては、また時をみて書きたいと思う。
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