このブログで何回か、「悪の選択論 Choice of Evils」 なるものを紹介した。詳しくは、以下のブログを読んで頂きたいが、一言で言えば、「(私の行った行為は) 大きな悪を防いだり、避けたりするための、小さな悪の選択なので、違法行為から、完全に、あるいは限りなく免責される」 という考えである。
★日本版 「悪の選択」 論 - 拉致監禁正当化理論
http://humanrightslink.seesaa.net/article/390177347.html#more
アメリカの拉致監禁裁判では、被告側(実行犯側)に好んで使われ、ある時期までは、実際に効果のあった実行犯のための防衛理論である。「悪の選択論」は、2段階で話を進めていく。
(1) その対象となる教団の反社会性、犯罪性を効果的に訴える (大きな悪の存在)
(2) 暴力的手法の使用は認め、他に方法はなかったと主張 (小さな悪の選択)
結果として、"より大きな悪" からみて、"より小さい悪の選択" を根拠に、免責を求める
上記、(1) と (2) は、アメリカでは、セットで使用されたが、日本では、(2) の部分(拉致監禁の暴力的手法)に関して、実行犯は暴力的行為を表ざたには出来ないので、(1) の箇所 (対象教団の反社会的行動の実態) が、ことさら強調されることになる。
東京高等裁判所は、後藤裁判控訴審において、非常に興味深い判断を示した。
Blue Sky in Melbourne - Nov. 2014
以下、引用する箇所は、控訴審の判決文の7〜9ページの、「当裁判所の判断」の箇所で、被告の不法行為の成否を、ひとつづつ説明していく箇所の、その前段階の部分で、裁判所の判断基準を示す箇所である。
★後藤裁判 控訴審 判決文(その2)−車中で使用させたポータブルトイレは「自由の違法な制約」
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-297.html
(判決文は、ひとつの文章が長いので、一つの文章ごと、紹介し、簡単に、私のコメントを入れていきたい。解説 1, 2 は裁判ブログのものを、そのまま利用させていただいた。控訴審では、厳密には、控訴人、被控訴人と呼ばれるが、私の説明部分では、原告、被告とした。 )
<控訴審判決文より、以下枠内は、控訴審変決文からの引用>
本件の中心な争点は,平成7年9月11日から平成20年2月10日までの約12年5か月間,実家からパレスマンション多門へ,パレスマンション多門から荻窪プレイスへ,荻窪プレイスから荻窪フラワーホームヘ,それぞれ移動した機会のほかは,これらの場所から全く外出することもなく,電話その他の通信手段を用いて外部と連絡することもなかった控訴人について,刑法上の監禁と評価されるべきか否かはともかく,控訴人が主張しているように,控訴人の意思に基づかずに強制的に行動の自由が制約されたものであったのか,それとも,被控訴人らが主張しているように,控訴人の任意の意思に基づく滞在であったのかであって,被控訴人らから違法性阻却事由<解説1>,例えば,控訴人の意思に反して上の部屋等に控訴人を滞在させたものの,それは控訴人において犯罪行為などの違法行為に及ぶ明白かつ現在の危険があり,これを避けるために必要なものであったなどとの主張がなされているわけではない。特段に、難解な箇所があるわけではないが、最後の部分 (太字下線部分) には、「被告側は、原告に何らかの違法行為に及ぶ可能性・危険性があり、それを避けるために、各部屋に滞在させた・・・などとは主張していない」 と、言っている。高等裁判所が念を押したわけである。要するに、上記、悪の選択論の (2) は使っていないわけである。その通りで、被告側は、原告が、勝手に居座ったとか、家族への布教活動をしていたとか、そんな主張をしていた。
【解説1】:「違法性阻却事由(いほうせいそきゃくじゆう)」とは、法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう(例えば正当防衛など)。
しかも,控訴人も被控訴人<兄>らも,本件で対象となる平成7年9月11日からの控訴人自身の脱会説得等の前から,統一教会の信者の脱会活動をめぐる攻防の渦中にあり,被控訴人<兄>自身,父親である亡<父>らの脱会説得によって統一教会の信者から脱した経緯があり,控訴人も,本件以前にも脱会説得等を受けた経験があって,双方が脱会の説得をめぐって様々な方策や対策があることを熟知しつつ,駆け引きを交えながら継続的なやり取りが行われていたものであり,個々の事実だけを取り上げてその真意や当否を論じることは相当ではないが,既に過去の経緯等についても必要な範囲で当事者双方から主張立証がなされており,改めて主張立証の範囲を拡大しなければならないものではない。いずれにしても,以下では,そのような観点をも踏まえつつ,監禁か否かをめぐる双方の主張について検討する。別に説明はいらないと思うので、次の段落(文章)へ。
もっとも,被控訴人宮村は,上記の不法行為責任の有無を判断するに当たっては,より詳細に統一教会の活動の実態等に関する事実を認定することが不可欠であると主張しているが<解説2>,日本国憲法20条1項は,信教の自由は,何人に対してもこれを保障すると定めているから,ある宗教の教義がどのようなものであったとしても,それが直接対外的に他の人々や他の団体等の権利や自由を侵害したり,危害等を加えたりするものでない限り,他から干渉されない自由が保障されているものである。裁判所は,ある団体の活動が他の人々や他の団体等の権利を違法に侵害したり,危害等を加えたりする場合には,そのような違法行為等を規制する法令等の定めるところに従い,外形的な行為について,一定の法律判断を行うことがあるとしても,その宗教団体の教義の内実自体の当否を判断するようなことは,もともと日本国憲法が予定するところではない。この文章は、「今回の事件には、より詳細な統一教会の活動の実態等に関する事実の認定」 が必要であるという被告側の主張に対しての、高等裁判所の判断である。
【解説2】:控訴審において、宮村は本件拉致監禁事件とは関係ない統一教会の活動の問題点なる書面(統一教会関連のこれまでの裁判の判例や統一教会の教義と経済活動の関連等)を証拠として膨大に提出していた。宮村は、これらの証拠でもって、宮村や後藤家族らが、なぜ後藤徹氏との「話し合い」を12年もの長期に亘り追及したのかを弁明しようとしていた。しかし、以上の判決文の通り、その弁明は全く認められなかった。
したがって,統一教会の諸活動が我が国の他の法令等に違反し,許容されないものである場合には,その行為の当否等について,別途,民事,刑事の裁判手続で個別的に判断されるべきものであって,その信仰の自由の問題とは分けて考えられるべきものであるところ,本件では,統一教会から脱会するよう説得することや,そのために信者である控訴人を一定の施設に滞在させたことなどが違法か否かが問題とされているものであって,統一教会の違法な活動等によって何か損害を被ったとする被害者において,統一教会の活動の当否について責任を追及しているものではないから,統一教会の活動等の実態に関する事実は,上記脱会問題の当否を検討するに必要な限度で認定すれば足りるというべきである。ここは、前段落の続きである。この箇所は、最後にもう一度引用させていただく。
しかも,控訴人宮村も,被控訴人<兄>らの行為が控訴人の意思に基づかない身体の拘束であり,監禁であることを前提として,具体的に違法性阻却事由が存在しているなどと主張しているものではないから,前記認定事実に加えて,更に統一教会の活動等の実態に関する事実というものを付加する必要は認められないというべきである。<以下、私の説明>
この引用箇所は、少々、難解なところもあるかもしれないが、きょうの記事で最も重要なところである。分かりやすい、ちょっと、くだけた日本語にしてみると、こんな感じだろうか?
宮村さんも、「兄等の徹君への行為が、身体の拘束とか監禁であるとの前提で、その責任から免れるべき理由がある」とは主張していないので、統一教会の活動等の実態の事実など、付加する必要はない。
まだ、分かりにくいのだが、さらに、私の説明を加えるとこんな感じになる。
もし、被告らが、「徹の所属する統一教会の反社会的実態のゆえ、徹の将来に、危険性やその可能性が緊急のものとしてあったので、話し合いのため、徹の本意ではなかったが、私達の準備したマンションに滞在してもらった。」と、主張していたなら、統一教会の活動等の実態に関する事実の認定というのは、大切な部分かもしれない。しかし、被告は、そのような主張はしていないので、統一教会の活動等の実態に関する事実の認定は必要ない・・・との、高等裁判所の判断である。
この記事、最初の方で書いたが、「悪の選択論」(より大きい悪を避けるための、より小さな悪だから、大目に見てね) は、次の二つの主張がペアになり、主張の結論へと導かなければ意味がない。
(1) は、その対象教団の反社会性などの実態を明かすこと
(2) は、だから、話し合いのため、マンションに滞在してもらった
結論として、"大きな悪" と比較して、"小さな悪の選択" なので、「その行為の違法性はない」 と主張できる。
しかし、後藤裁判で、被告側は、(1) に関しては、膨大な量の書類を提出したが、(2) の段階へと進むことができなかった。まるで、膨大な前書きに対し、まるで尻切れトンボになったような、裁判所に採用されない、冴えない主張となってしまった。
高等裁判所は、(2) の主張のない、膨大な (1) の情報量に対し、明確に「統一教会の活動等の実態に関する事実の認定は必要ない」 との判断を下した。非常に賢い判決だと思う。
後藤裁判では、被告達は、今からは、その主張を変える事はできない。もし、次回にチャンスがあれば、アメリカで使われた「悪の選択論」 を忠実に、再現したらどうか? すなわち、「統一教会の実態に関する書面を提出し、多少手荒なまねはしたけれども、本人の意思ではでなったけれど、マンションに連れ込み(滞在してもらい)、監禁した(話し合いを行った)」 と、正々堂々と主張したらどうか?
しかし、その手も、後藤裁判控訴審判決によって、阻まれかけてしまった。控訴審判決は、こう言っている。
統一教会の諸活動が我が国の他の法令等に違反し,許容されないものである場合には,その行為の当否等について,別途,民事,刑事の裁判手続で個別的に判断されるべきものであって,その信仰の自由の問題とは分けて考えられるべきものである
拉致監禁実行犯を弁護する弁護士を八方ふさがりにさせてしまった控訴審判決は、まさに歴史的判決である。さらに、拉致監禁容認派がいつも使う手法であるが、統一教会の反社会性と、拉致監禁を結びつけ、拉致監禁を容認する主張に対して、高等裁判所は、明確な判断を示したことになる。
最後に加えておきたいが、この記事は、宗教の自由の観点から、拉致監禁問題を扱っているもので、統一教会の反社会的実態を容認するものではない。
さて、今年 (2014年) もあとわずか。この連載:「後藤控訴審判決の歴史的意義」 も、次回が最終回の予定です。
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