2014年05月10日

後藤さんインタビュー(2): 家族で荒川土手散歩 - 幸せの瞬間

前回に引き続き、米本和広氏による、後藤徹さんへのインタビューを掲載したいと思う。前回にも書いたことだが、2011年4月に、岡山県倉敷の高山牧師と、そして、拉致監禁被害者の後藤さんと面会したときの、その対応の違いは、今でも鮮烈に覚えている。その違いゆえに、”保護説得”組には、隠したい何かが存在するということを実感した。

さて、インタビューの続きを紹介したい。今回のインタビューでは、「海外での反応」、「日本での反応」、「裁判準備の苦闘」、「後藤さんの家族」 のことなど語っている。

Toru Goto Relaxing Time with His Family on the Arakawa River Bank.jpg
Toru Goto's Happiest Moment with his wife and 2-year-old daughter whilst preparing for the stressful court battles against the captors.
Photo from: http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-468.html


★後藤インタビュー(中)−とても仲がよかった後藤兄弟 (火の粉を払え)
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-468.html
♤ 日米韓の人権感覚の違い、
♤ 新しく生まれた家族の絆、
♤ 記憶を蘇らせるときの苦痛、等のヘッダーは省略させて頂きました。
米本氏の感想の部分も、ここでは省略させて頂きましたので、上記リンクでご確認下さい。
−−に続く青色部分 が米本さんの質問部分、その下の枠内が、後藤さんの応答部分となっています。適宜、段落分けとか、行をあけたりしました。
私が感じたこととか、最後にまとめて書いています。



−−話題を変えます。12年間の単調な風景、暮らしとは言えないような暮らしから、監禁解放後は目まぐるしく風景が変わったと思います。とくに、海外に何度も出かけられたことです。これまで、何回、海外に。
誤解されているのではないかとあえて言っておきますが、監禁前に飛行機には乗ったことがありますからね。(爆笑)

アメリカには3回、出かけました。ワシントン、シカゴ、ニューヨークなど。国連人権理事会があるスイスのジュネーブにも3回。韓国も確か3回でした。韓国の3回のうち1回は2週間ほどかけて全国を巡回しました。それから、スペインと台湾にもそれぞれ一回行きましたね。


−−そこで感じたことは。
海外に出かけたのは、もちろん拉致監禁を撲滅するためです。拉致監禁被害者の代表として、自分の被害体験も含めて日本で甚大な宗教迫害が行なわれているという啓蒙活動でした。

驚いたのは、欧米諸国の知識人の反応の高さでした。「日本のキリスト教の牧師はけしからん!」

信教の自由に基づく人権意識が根付いているのでしょうね。打てば響くような反応の良さでした。ぼくの訴えがストレートに受け止められ、また12年間よく頑張ったと褒められ、すごくうれしかったし、励まされました。


−−欧米に比べ、日本と韓国の反応は。どちらも主に教会員に訴えたと思いますが。
どこに行っても皆さん、真剣に耳を傾けて熱心に聞いて下さいましたよ。

日本の教会員の皆さんは、自分が拉致監禁の経験がなくても身近な人が拉致監禁を経験していることが多く、その理不尽さを知っている人が多い。だから、普段は拉致監禁問題の意識がなくても潜在的にものすごく義憤心があるので、私が拉致監禁の被害の惨さを話すと、会場が義憤と怒りで充満する雰囲気になります。それから、12年監禁下で信仰を全うした宗教的な証しに感銘を受ける方が多いです。

韓国の教会員の皆さんは、より情的ですね。私が監禁から解放されて行き倒れる寸前で奇跡的に教会員の女性と出会い、助けられるのですが、その体験を話すと皆さん涙を流して感動されていました。


−−韓国も日本も、“官製的な反応”だったのでは? 後藤さんを熱狂的に迎え入れるのだけど、あくまでそれは一過性。その根拠は、狭い特殊な食口の集まりである「ブログ−統一教会村」で、自分のこととして後藤さんの監禁についての感想を綴る人がほとんどいないことです。

また、良心的なある教会員はこう語っています。「後藤さんの裁判に対する食口の関心度が低いように思いますがいかがでしょうか。教会からの理解も少ない中、物心両面にわたって戦い、ついに勝訴を勝ち取った裁判に対して、その苦痛を理解し、苦労をねぎらう文化を作らなければ統一運動の発展はないのではないかと思います」

う〜ん・・・。(苦笑しながら)一過性というか、とにかく教会員の皆さんは忙しいので、そればかりに関わっているわけにも行かないですしね。拉致監禁問題は信徒の人権問題として重要なことなので、こちらからまめに発信して皆さんに意識して頂くことが必要だと感じています。


−−拉致監禁の集会が中止になったことなどはあった?
ええ、一度、ある教会で拉致監禁反対のデモ、集会をやることになっていたのが、そこの教会長さんの意向で中止になり、急遽取りやめになったことはありました。理由は、はっきりは聞いていませんが。


−−教会長の評価はすべて実績で決まるから、余計なことはやりたくなかった、教会員に伝道と献金以外のことを考えさせたくなかったのでしょうね。寒々とした話です。 新宗教の国際会議にも参加されましたよね。
はい、その一つが反カルトの国際会議(ICSA)ですが、そこに出席し、拉致監禁被害のことを訴えました。私たちは、ICSAに公式に申請し初めて一つのセッションの開催を勝ち取りました。

それまでの10年間は、山口広さんたち(全国霊感商法対策弁護士連絡会=全国弁連所属の弁護士たち)の独壇場でした。霊感商法は悪い。日本の弁護士である俺たちはそれと闘ってきたという報告が続いていました。

そこに、参加するわけですから、まさに敵陣に乗り込むような気持ちでした。会議には、紀藤正樹弁護士や山口貴士弁護士、それにエイトさん(田中清史)が来ていました。アウエーで、反撃に出たわけですから、非常に刺激的でした。

私たちは、堂々と統一教会信者として我々が被ってきた拉致監禁被害の実態を訴えました。アウエーではありましたが、私たちは孤立しませんでした。なぜなら、欧米の知識人たちは反カルトではあるけど、人権にものすごく敏感な人たちでした。

彼らの反応は「たとえカルトでも脱会させるのに監禁は絶対ダメ」というものでした。セッションで確かな手応えを感じましたね。


−−後藤さんたちの活動によって、「国境なき人権」のメンバーが訪日。調査を開始し、報告書を発表した。そして、彼らはアメリカの国務省に働きかける。歴史的な出来事だと言ってもいいと考えています。

ところで、監禁解放後5年間で、後藤さんにとって画期的だったことは、結婚されたことだと思います。31歳から12年間監禁され、社会に戻ってきたときは44歳。まさに浦島太郎です。後藤さんのことを心配する教会員にいろんな思いが過(よぎ)ったと思いますが、その一つがこれからどうしていくのか、どういう人生を歩んでいくのか。具体的には結婚のことを心配していました。

だから、後藤さんがマッチング結婚したと聞いて、ぼくばかりではなくみんな小躍りしたと思います。「拉致監禁をなくす会」でミニお祝い会をやることが自然に決まって・・・。

(表情をパッと変え)いやあ、ほんとうに。

12年間は、家族といっても、加害者と被害者が一つの屋根の下で暮らしてきたわけですから、夜寝ていても緊張の連続で、会話らしい会話もない。空気が凍り付いたような雰囲気の中で心が安らぐことは全くありませんでした。

それが結婚して伴侶を持った。心の底から信頼し合える、共に支え合える人がいる。心の底から安らぎを得た。これはものすごく大きかったですね。一生の間、宗教的に言えば永遠に愛し合える人が横にいる。まさに至福そのもの。

のろけになるけど、奥さんがこれまたなかなかの人なんです。なにしろ、大学は食物栄養科を出ていて、調理師の免許を持っている。なので料理が実にうまいのです。監禁中に夢見た7種の丼物がリクエストに応えて次々と目の前に出てくる。これが夢想して食べるものより、はるかにうまい。当たり前ですがね。 (笑)

それと、パソコンが得意なのにも助けられました。裁判での書面は気が遠くなるぐらいに膨大です。それを奥さんが専属秘書のように実にてきぱきと処理してくれる。裁判で戦う私の緊張をいつも気遣い、慰め励まし応援してくれます。料理もパソコンも・・・神を感じましたね。


−−もう一つ、画期的だったのは赤ちゃんを授かったことでは。
奥さんがある日、ぼくにこう話しました。「大事な報告があります・・・。できたかもしれません」

え! もう、青天の霹靂!ですよ。

はじめはとても信じられませんでしたね。所帯を持って2年間、子どもはできなかった。しかも、奥さんはもう42歳でしたから。

そのときに浮かんだ言葉は「判断は慎重に慎重に」。違っていたら落胆も大きい。 そこで、「(妊娠したかどうかの)試験薬を見せて!」と興奮して喚きました。確かに陽性反応の印が。しかし、慎重に慎重に。

その後、産院の超音波断層検査によって、妊娠1カ月目の胎児がいることを確認しました。「 いたかぁ!」。奥さんには無理をせず職場からなるべく早く帰るように言いました。毎日がもうハラハラドキドキの日々でしたね。


−−それから。
それから?

そうそう。奥さんのお腹が日に日に大きくなっていく。それで、これは生まれる前にビデオカメラを準備しておかないと、と思ったんです。電器店を見てまわったが、これが結構高い!なんとか手頃なものを購入しました。

家の近くに荒川の土手があって、天気のいい日にそこに2人で出かけました。そして、ビデオを回しながら2人で大きくなったおなかに向かって語りかけました。


−−申し訳ないけど、駒を進めて。
ああ、ごめんなさいね。奥さんの陣痛が始まったというところに、話を戻します。

予定日の3日前だったと思いますが、陣痛が来たというので、奥さんにビデオカメラを向けながら、「いよいよですね。これから病院に向かいます。がんばれ!」と吹き込みました。

高齢出産だったので心配でしたが、安産で元気な女の子が生まれました。私も出産に立ち会いましたが、出産直後に奥さんが我が子を胸に抱き、涙を流しながら、「来てくれてありがとう」と語りかけていたのが感動的でしたね。
今、娘は2歳になります。時々3人で一緒に荒川の土手を散歩します。そのときだけは、拉致監禁のことも裁判のことも忘れます。

神経を逆撫でされるような陳述書を読むことのストレス。それに反論書面を書くために、無意識に思い出したくないと思っていた嫌なことを必死になって思い出さなければなりません。 だから、荒川土手の散歩は精神的にとても良かった。

あのときのあの場面には誰がいたのか。どんな表情をしていたのか。何と言われたのか。いい思い出ではないゆえ、記憶を辿るのは苦痛を伴いました。集中力と精神力を消耗する作業です。原稿用紙の前に向かうときは、「よし、やるぞ!」と気合を入れて取りかかりました。

緊張を強いられる日々でしたが、親子3人で散歩に出かけることで安らぎを得たし、ひととき裁判のことも忘れることができました。


−−陳述書がよくできているだけに、そのような苦闘があったとは知りませんでした。
 
子どもの頃から兄弟仲が悪かったのならともかく、そうでなかっただろうから12年間を思い出すのは辛かったでしょうね。

兄弟仲は悪くはなかったと思いますよ。だからこそ、兄が統一教会に入信した後、すぐに私と妹が兄によって統一教会に入信したのです。仲が悪かったらそうはいかないですよ。私が大学で建築学科を選択したのも兄の影響がありました。

妹はかわいがっていましたよ。勉強を教えてやったこともある。「徹兄ちゃんの教え方はとてもわかりやすい」と言ってくれ、実際、私が教えたときはいい点を取っていた。


−−妹さんのことは何と呼んでいたのですか。
雅子とかマーサとか。


−−仲の良かった兄、妹なのに、監禁によって関係は切り裂かれてしまう。
彼らは、自分たちが拉致監禁という重大な犯罪を行ったことをよく分かっています。しかし、統一教会信者だった自分たちが、拉致監禁という方法で脱会することができたので必要悪だと思っている。兄が監禁中に思わず叫んだことがあります。

「じゃあ、(脱会させるのに)他にどういう方法があるって言うんだ!教えてくれ!」
 
と語った言葉にそのことがよく現れています。彼らは自分の考えと立場を絶対正義と見なし、こちらの思想信条を一切認めず、病原菌のごとく唾棄してそれを矯正するためであれば犯罪や人権侵害までも必要悪として正当化し、結果として相手の人生を破壊してしまう。たとえ兄妹でもこのような蛮行を絶対に許すことはできない。だから、私は裁判に踏み切りました。

しかし、彼らだけでは、あそこまで長期間監禁を続けることは無かったと思う。10年以上もの監禁が続いたのは彼らの背後にあって宮村と松永が教唆・指導していたからこそです。

12年間の長い監禁生活の結果、彼らの人生計画もすっかり狂ってしまった。兄夫婦は、1995年1月に結婚し、その8カ月後からプライバシーのまるでない監禁生活に入ったわけです。楽しい新婚生活が待っていたはずなのに、私を監禁する生活となってしまった。

妹は、私が偽装脱会していたときに、確か「私の夢はお嫁さんになること」と語っていました。それなのに、監禁生活を維持するためずっとマンションに留まって見張っていないといけない。まして恋愛や結婚などできるわけがない。それでも、妹は私を監禁から解放した後に結婚しました。


★解説・感想
後藤さんは、海外での反応を 「打てば響くような反応の良さ」 と表現している。日本や韓国での (教会員の) 反応について、インタビューアーの米本さんが、「"官製的な反応" だったのでは? 後藤さんを熱狂的に迎え入れるのだけど、あくまでそれは一過性。」 と尋ねると、後藤さんは 「(苦笑しながら)一過性というか、とにかく教会員の皆さんは忙しいので・・・」と答えている。確かに、忙しすぎると、現実的にどうでもいい事は、後回しにしてしまう。

米本さん自身の感想でも 「拉致監禁に対する日韓の反応の鈍さ」について、「研究検討課題」と言っている。このインタビュー記事の出展元である 「火の粉を払え」 でも、それに関連したコメントが多く寄せられている。やはり、時間のかかる研究課題のようだ。

私のブログの開始(2010年9月)以降の、後藤さんの海外での活動は、できるだけ取り上げたはずだ。このブログの熱心な読者なら、後藤さんが、「反撃に出たわけですから、非常に刺激的でした。セッションで確かな手応えを感じました。」といえば、「あー、あの事か」と、おぼろげながらでも、わかると思う。

2011年にスペインのバルセロナで行われたICSA反カルト国際会議で起こったことである。以下、その参考ブログ記事。
★拉致監禁派 国際舞台の終焉(上):宗教ジャーナリスト室生忠氏によるレポート
http://humanrightslink.seesaa.net/article/227954033.html

★拉致監禁派 国際舞台の終焉(中):宗教ジャーナリスト室生忠氏によるレポート
http://humanrightslink.seesaa.net/article/229535164.html

★拉致監禁派 国際舞台の終焉(下):それに貢献した日本の若者二人
http://humanrightslink.seesaa.net/category/10128899-1.html


兄弟仲は悪くなかった」というのを聞けば、ちょっと重くなる。そんな家族を訴えなければならない後藤さんの肩の荷は本当に重いと思う。

上記本文内のインタビュー引用部分では省略したが、米本氏の感想部分に、こんなところがある。
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-468.html
ぼくがUターンで関東を去るとき、心残りのことがいくつかあった。

その一つが中島裕美さんのことであった。彼女は拙著でも書いたが、戸塚教会の黒鳥似非牧師から保護説得を受け、脱会したあとPTSDを発症した。症状は今でも続いており、いまだ入退院を繰り返している。

彼女が退院するときは、病院から自宅まで荷物運びを手伝っていた。それがUターンでできなくなってしまった。
 
その役割を、教団本部広報部長の澤田さんと後藤さんが引き継いでくれた。宿谷さんと違って面識もない。また、生活保護で暮らしている統一批判派の中島さんをエスコートすることに、教会員のメリットはなにもない。純粋な「義と情」ゆえのことであろう。

後藤さんが約束してくれた。「ぼくが元気なうちは続けますよ」。心が晴々し、うれしかった。先日も、澤田さん、後藤さん、宇佐美さん(冤罪被害者)が彼女を見舞ってくれた。
読んでいて、後藤さん達の優しさに、涙が出そうになった。

荒川土手で、夕日に向かう(夕日と、勝手に想像したが・・・)、後藤さん、そして奥様、そしてその真ん中に娘さんが手を繋いだ後姿の写真に、リラックスしている幸せな瞬間がよく現れていると思う。裁判はまだ続き、そして、日常の生活でも、大変な状況はこれからも出てくるとは思うが、後藤さんには、こういう "幸せの瞬間" を大切にして、がんばって頂きたいと思う。

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posted by 管理人:Yoshi at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 後藤徹氏、インタビュー記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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