後藤インタビュー(上)−10年間毎日聞いた♪夕焼け小焼け♪
のインタビュー部分を全文掲載 + 私の感想
私は、以前、有田芳夫氏 (現参議院議員) のブログ 「酔醒漫録」 を時々読んでいた。読んでいた理由は、その昔、私が、10代の後半から20代の後半に至るまで在籍していた統一教会がどうなっているのか知るためだった。そのブログ、2009年7月12日付けの 「〈資料〉統一教会会長、記者会見のお知らせ」 という記事の中で、「拉致監禁」 のことが触れられていた。「拉致監禁」 という言葉が、気にはなったが、その詳細は知らないまま、積極的に調べないまま、半年以上経過した。
2010年の2月の中旬か下旬、世界日報(統一教会系日刊紙)で、「拉致監禁の連鎖」という記事が無料でネットで読めることを知った。すでに連載は始まっていたので、すでに掲載されたものはさかのぼって読み、あとは、毎日アップされる記事を、貪(むさぼ)るように、時には怒りながら、時には落ち込みながら、読んでいった。「こんなひどい事があっていいのか? 許されるはずがない。」という強烈な衝撃を受けた。経過は省略するが、その年(2010年)の9月に、このブログを開始した。
その当事(2010年9月)は、後藤さんの刑事告訴に関しては、検察は不起訴とし、検察審査会の判断を待っているところだった。2010年10月8日に、検察審査会が「不起訴相当」の決議をし、その後、後藤さんは、2011年1月31日に、民事訴訟を提起した。3年の時を経て、民事裁判の画期的判決が、2014年1月28日に言い渡された。
米本和広氏のブログ「火の粉を払え」にて、米本氏がその判決直後に行った後藤徹氏へのインタビューが掲載されている。後藤裁判の判決(2014年1月28日)の直後に行われたインタビューだ。後藤さんの陳述書などには、描かれていない、あるいは、裁判の文書には入れる必要もないかもしれない、後藤氏の内面が含まれており、また、判決後すぐに行われたインタビューで、拉致監禁問題を扱う上でも、重要なものになっていくと思う。より多くの人に読んでもらえたらと思い、このブログでも、インタビュー部分を全文掲載させて頂く事にした。

Smiling Toru-san holding Katsu-Don, which he desperately longed for during the confinement. His wife cooked it for him.
Photo from: http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-467.html
★「後藤インタビュー(上)−10年間毎日聞いた♪夕焼け小焼け♪ 」(火の粉を払え)
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-467.html
(♤ 夕焼け小焼けで日が暮れて、
♤ 唯一の慰めは夜寝るときの「日替わり丼」、
♤ 人に対する見方が変わった 等のヘッダーは省略させて頂きました。
米本氏の感想の部分も、ここでは省略さえて頂きましたので、上記リンクでご確認下さい。
−−に続く青色部分 が米本さんの質問部分、その下の枠内が、後藤さんの応答部分となっています。
私が感じたこととか、最後にまとめて書いています。)
−−勝訴判決、おめでとうございました。良かったですね。
ありがとうございます。
−−以前、監禁の12年間より監禁から解放されてからの今日までの5年間のほうが長かった、と話されていたことがとても印象的でした。
いやぁ、12年間も長かったですよ。長さの質が違いますね。
−−どういう風に?
10年間以上、目に入るのは同じ壁と同じ天井、部屋にいる人も同じ。毎日夕方になると、どこからともなく「夕焼け小焼け」が流れてくるのです。
それを物憂げな気分で聞きながら、何もできない辛さ・・・怒りと絶望感、徒労感に襲われるのです。毎日、毎日。いま振り返ってみても、有意義に過ごした感覚がまるでないのです。
−−刑務所の囚人と同じ?
(語気を強めて)刑務所の人たちには刑期があるじゃないですか!刑期が終われば外に出られるという希望がある。しかし、私の場合、刑期がない。いつ終わるとも分からない。私はこのまま6畳一間の畳の上で死ぬのかと思っていました。
社会から隔絶されている自分。その悔しさ、不安・・・。外の社会はどんどん変化し進歩している。そこから自分だけが取り残されていく。絶望的な思いで一杯でした。
ただ私の場合、信仰を持っていたので何とか精神が破綻せずに済みました。あの状況で信仰がなければ、発狂するか、自殺するか、あるいは家族に暴力をふるっていたでしょうね。
「今生では結婚もできない、家庭も持てない。たとえ寂しい人生で死んでも、神だけはこの苦しみを知っていて下さっている。」そう思っていました。
−−それが解放されてからは?
これは、もう解放された自由の喜びにつきます。
行きたいところに行ける喜び。会いたい人に会える喜び。食べたいものを食べることができる喜び。情報を得たいと思えば、それを自由に手に入れる喜び。選挙があれば、自由に投票することができる喜び。心の底から自由の喜びをかみしめました。本当に嬉しかった。
この喜びの大きさは、自由が当たり前の世の中ではなかなか理解してもらうのが難しいと思います。先の話に戻りますが、服役囚の場合、罪を犯して裁判所でキチッと裁かれ刑務所生活を送るわけです。拘束下から外に出ることができた喜びは私と同じかもしれませんが、彼らは罪を犯し裁判所で有罪判決を受けて刑務所に入っていたので自業自得と言えます。それに対して、私は統一教会に入信していただけです。だから、服役囚が監獄から解放されるのと喜びの質が違うと思うのです。
荻窪のマンションから追放される形で解放されたとき、思わず、自分が居たマンションを見上げましたよ。解放直後は食事制裁による栄養失調と長年の運動不足で体は衰弱していましたし、これからどうしたらいいか不安はありましたが、一方でその時の解放感と喜びは言葉では表現できないほどです。
外に出て、一歩踏み出したときにまず新鮮に思ったのは「知らない人が歩いている!」ということでした。
−−どういう意味ですか。
私に対して敵意を持っていない人が普通に(路上を)歩いているという感覚です。
12年間、私の周りにいた人たちは特殊なごく限られた人たちでした。すなわち宮村や家族や元信者たちは、私の信仰に強烈に敵対する人達でした。10年以上監禁して説得しても頑として統一教会の信仰をいつまでも捨てようとしない。そんな私が憎たらしくてしょうがない。それが、彼らの言葉や態度にいつも表れる。ですから、私にとっては彼らの存在自体がものすごいストレスでした。
それが外に出ると、私に悪い感情を持っていない知らない人が普通に通りを歩いている。こんなこと至極当たり前なんですがね。この感覚は、お分かりにならないと思いますが、実に新鮮でしたよ。
それから、監禁場所をメモするためにマンションのエントランスの段ボールの中にあったチラシを引っ張り出して、その裏紙に住所を石でこすって書き留めました。
−−解放されてから、後藤さんは統一教会がある本部、渋谷の松濤を目指して歩くわけですが・・・。
このときは、とにもかくにも、腹が減っていた。約2年間まともな食事を取らせてもらえず飢餓状態でした。青梅街道を歩いていて、まず飲食店から漏れてくる匂いがたまりませんでしたねえ。
ラーメンの匂い、ドーナツの甘い匂い、焼き肉の匂い。ショーウィンドーの見本料理に目が釘付けになりましたねえ。しかし、一文無しで追い出されたのでどうしようもなかった。
あっそうそう。腹が減っていたと言えば、こんなこともありました。フラワーホームで食事制裁を受けていた時、飢餓と徒労感に苛まされながらも、唯一の慰めが夜寝るときの「日替わり丼」でした。今日は中華丼、明日は海鮮丼。
−−??
(ちょっと恥じらんだように)実は、その頃、毎晩、どんぶりに入った美味そうな丼物を食べることを夢想しながら眠りについていました。とにかく腹が減ってなかなか寝付けない。そこで、「もし、丼物を日替わりで食べるとするとご飯に何を乗せるか?」と自問自答し、ズーと想像を巡らせる。
連日の夢想の結果、定着した日替わり丼の一週間のメニューは牛丼、カツ丼、中華丼、親子丼、海鮮丼、麻婆丼、カレー丼の7種類でした。
その夢想は、かなりリアルで例えば海鮮丼の場合、イクラ、エビなど乗せる魚介類一つ一つを具体的に思い描き想像しましたよ。なぜ、丼物だったのか自分でもよく分かりませんが、多分、一番手軽にかき込むように食べられて種類が多いから想像しがいがあったのかもしれませんね。
だから、渋谷の松濤本部にたどり着いたとき、守衛の方がカツカレーを買ってきてくれたことが、ものすごくうれしかった。
肉も約2年間食べられなかったですからね。カレーのいい匂いが目の前から漂ってくる。それを冷たい目で見られることもなくおもいっきり食べられる。もう、うれしいのなんの・・・。
監禁下での食事制裁中、最もきつかったメニューはカレーでした。家族は同じテーブルでカレーをよく食べていたのですが、飢餓状態の時、特にカレーの匂いは強烈でした。食事の後もしばらく部屋にカレーの匂いが残るんですね。それが、またたまらない。
さらに、家族はいつもカレーのルーを残して翌日のお昼にカレーうどんにして食べる。もう、喉から手が出るほど食べたかった。
そんなわけで、解放後なんとか本部にたどり着き、いつも食べたいと思っていたカツカレーがパッと目の前に出されたとき、瞬時に神の計らいを確信し、深く感動しました。無宗教の米本さんには理解できないでしょうが(笑)。
−−話を戻しますが、監禁の12年間と自由になった5年間のことです。
監禁からの解放後、自由を享受する喜びはありましたが、一方で長い間社会から隔絶されていたため、いろいろ苦労がありました。
何しろ、住むアパートはないし、仕事もない。履歴書もまともに書けない。
監禁から解放されてから牛乳宅配の仕事が見つかりましたが、仕事上、車の運転が不可欠だった。ところが、運転免許証がない。監禁中、免許証が失効していましたから。これには、ほとほと困りました。そこで、改めて免許を取らなければならないけど、一から教習所に通うお金がない。そこで、一発試験で取ることにして、比較的お安いそのための講習に通いました。
12年間のブランクはともかく大きかったです。皆が手にしている携帯電話に驚きました。パソコンは旧型のものをリサイクルショップで2000円で買って使い方を覚えたり。布団や鍋釜などの生活必需品の多くは教会員仲間から譲ってもらいました。これは、本当にありがたかったですね。
−−12年間よりこの5年間が長かったというのは、上から目線で申し訳ないけど、後藤さんが成長したからではないでしょうか。子どもの頃は時間が経つのが長く感じられるけど、大人になるとあっと言う間に1日が過ぎていく。それは、子どもの頃は様々な刺激を受け、成長するがゆえのことではないかと思っています。ぼく個人のことになるけど、大腸がんになっていろんなことを学びました。入院期間は5週間。退院してから12週間(インタビュー当時)になりますが、入院中のほうがものすごく長く感じられた。
(眉間に皺を寄せ、沈んだ調子で)確かにこの5年間での経験で、私の認識は大きく変わりました。特に人に対する見方が変わったと感じます。
例えば、こんなことがありました。監禁解放後の入院中、かつての信仰仲間が見舞いに来て下さって本当に嬉しかったのですが、その中に一人の女性がいました。
久しぶりに会った彼女と少し話をしてみると、私が監禁される前に知っていた彼女とはだいぶ違っていました。彼女は統一教会の信仰から少し離れているような状態でした。
彼女の変貌に私はとてもショックを受け、正直、怒りを覚えました。言葉には出して言いませんでしたが、
「いったいどうしたっていうんだ!俺は監禁されながらも自分の信仰を貫くため12年間も忍耐してきたっていうのに!」といった思いが湧いてきました。
自分が死線を彷徨いながらも苦労して信仰を全うしたとの強烈な思いが、変貌した彼女への怒りとなったのです。
私は、わざわざお見舞いに来てくれた彼女に厳しい言葉をまくし立て、連日、彼女のためによかれと思い覚えたてのメールで一方的に文先生のみ言葉の一節を送りました。そんな私の言動に彼女が反発したのは当然の成り行きでした。彼女とはそれっきりになってしまいましたが、あの時の私は異常でしたね。「信仰傲慢」だったのです。今となっては深く恥じています。
今では、人に対して多角的に見ることができるようになったと思います。
−−そうなった契機は。
宿谷麻子さんの存在は大きかったですね。宿谷さんに関しては米本さんの本『我等の不快な隣人』によって初めて知ったのですが、ものすごく衝撃的でしたね。統一教会を拉致監禁によって辞めた元信者で、その後、統一教会にも拉致監禁グループにも批判的になった方です。
「拉致監禁をなくす会」の役員会などで交流を持ち、私の裁判を支援する裁判ブログの世話人にもなって頂きましたが、こういう人もいるのかと思いましたね。koyomiさん(裁判ブログの世話人)もそうです。
このような交流がきっかけとなって、人に対する見方が変わり視野が広がっていったと思います。
−−どんな風に?
拉致監禁の被害といっても単純一様ではなく、その被害者個々人やその状況によって千差万別であるということです。
例えば、拉致監禁の2次被害というものもあります。統一教会から脱会させるために信者を監禁するのが1次被害。そして、拉致監禁から逃げ帰ってきた信者が、同じ信者仲間から冷たくされ傷つけられたという事例が2次被害です。
それだけでなく、3次被害ということもある。
これは、拉致監禁の被害者が自分の体験談を話すなどの拉致監禁を撲滅するための様々な活動を行うときに封印してきた拉致監禁体験が蘇り、PTSDが発症してしまうという事例です。だから、拉致監禁の被害者と対面するときには、細心の注意を払うように心がけています。
−−確かに、2次被害は多いです。火の粉ブログのコメント欄に投稿されている黒い羊さん、秀さんもそうです。拉致監禁から逃げ帰ってきた人で、教会が温かく迎え入れたケースのほうがむしろ少数だったでしょうね。
3次被害もそう。拉致監禁体験者である埼玉の女性教会員は、上から拉致監禁反対のデモと集会に参加しろと言われて、嫌で嫌でしかたがなかった。それでどうしたらいいかと相談を受けたことがあります。
また、韓国の女性教会員は集会に参加することを強要され、それがもとでかなりひどいPTSDになってしまった。
★感想
私が後藤さんと始めて会ったのは、このブログを始めて、最初の日本帰国時の2011年4月だった。新宿の喫茶店だった。
その1週間ほど前、私は岡山県倉敷の高山牧師を訪問した。高山牧師は、応接間まで通してくれたのだが、「保護説得・拉致監禁」 について、私が聞いたところ、まるで、人が変わったように「お話できません。お帰り下さい。」と言った。
後藤さんに初めて会ったとき、後藤さんは私の目をみて、固く握手してくれ、私の質問にも、いろいろと答えてくれた。その日の朝、私は、荻窪から、松涛二丁目の交差点まで歩いてみたのだが、歩いたルートとかについても聞いた。後藤さんは、丁寧に答えてくれた。
後藤さんは、インタビューの中で、「宿谷麻子さんや、Koyomi さんとの交流で、人に対する見方が変わり視野が広がった」 と、言っている。後藤さんは、 "信仰傲慢" という言葉を使って、説明している。一般的な話として、統一教会だけでないが、信仰を持った人と話をする時、"我が宗教の優越性" を言葉に出さなくとも、それを感じさせる人々がいる。私は、それには、辟易する。
私が始めて後藤さんに会った2011年4月にも、その後も、後藤さんに、その "信仰傲慢" を感じたことはない。2008年2月以降、短い期間に、後藤さんが、麻子さんや Koyomi さんをはじめとして、様々な人と交流する中で、変わっていかれたということだろう。後藤さんは、そういうことのできる包容力・人格を持ち合われているのだと思う。だからこそ、後藤さんの裁判でも、統一教会とは関係のない様々な専門家、特に医療関係(裁判ブログでもすべてが発表されていないけれども・・・)の方々が、陳述書や意見書を書いてくれたのだと思う。もし、そのような後藤さんでなかったら、私の行動も、違っていたものになっていたかもしれない。
2012年9月の帰国時には、後藤さんの民事裁判の口頭弁論を傍聴した。口頭弁論と言っても、文書提出の確認と、次の予定を決めるだけのもので、10分くらいで終わった。その後、後藤さんが時間をとってくれ、渋谷の喫茶店で、2時間近く話をした。この時、後藤さんは、今回の米本さんのインタビューにもあるとおり、監禁中に食べたかったものとか、表現こそ違うが、いろいろと話してくれた。
解放後に、松涛二丁目まで歩き、そして、タクシーに乗せられて教会本部に到着し、そこれで出された食事(正確には、隣のコンビニ店で、守衛さんが買ってきてくれたもの)が、監禁中に欲していたもので、後藤さんは ”神様を感じた” と言っていた。時が経とうが、相手が変わろうが、後藤さんの語る内容は常に一貫している。この点において、後藤さんの証言は信じられる。
拉致監禁の二次被害というのは、私自身、ある程度、聞いたりしていたが、、三次被害というのは、ほとんどはじめて聞く内容だった。拉致監禁活動を強要する教会のリーダーにも怒りを覚えるが、長い年月が経過しても、思い出したくないほどの惨(むご)い体験だったことの証明になると思う。
後藤さんの体験を思い浮かべながら、「夕焼け小焼け」を歌ってみた。私なら、とっくに、発狂していたと思う。後藤さんの陳述書で、新宿のホテルに監禁された時、窓ガラスに椅子か何かをぶつけて壊そうとしたが、「もしや、下に人がいたら、人に怪我をさせてしまう」と、思い留まった場面が出てくるが、私なら、たぶん、そんな理性は働かなかったと思う。
インタビューを読み返すたびに、新しい感想が出てきてしまう。米本氏のインタビュー記事は、あと2回続くと思うが、同じ形式で紹介したいと思う。
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10年間、同じ天井、同じ壁、そして自分に敵対する人たち
その中で聞こえてくる「夕焼け小焼け」
私なら、気が狂っていたと思う。
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原告側から意見書を提出した医師達は、殆ど統一教会とは関係ないと聞いてます。
医師達が後藤さんの為、時間を割き、意見書を書いたのは、後藤さんの人柄に何かを感じたからでしょう。
「信仰傲慢」という言葉が出てきましたが、「不信仰傲慢」もあります。
元信者(脱会者)に多いのですが、「まだそんなことしんじてるのか!」という馬鹿にした態度、言葉、上から目線です。
信者は、脱会者に冷たい、上から目線と、脱会者はよく言いますが(私もよく言ってますが)、脱会者も信者に対してそうなのです。
後藤さんは、12年間ずっとそれを感じてきたのでしょう。
だから、解放された時に、自分に敵意を持ってない一般の普通の人が歩いているのを新鮮に感じたのでしょう。
「不信仰傲慢」という視点を教えて頂き、ありがとうございます。「信仰傲慢」も「不信仰傲慢」も、「信じる(or 信じない)自由」を、相手の心の領域に入り込み、自らの考えを押し付けるという点で、似ています。
まずは、自分自身が気をつけなければいけないことと、再認識いたしました。
その中で聞こえてくる「夕焼け小焼け」
私なら、気が狂っていたと思う>
気が狂ったか、鬱になったか、私も廃人のようになっただろうと思います。
敵対する人たちに対する怒り、そして反撃する武器も力もないことによる絶望感、伴侶を失ったことによる喪失感、同じ兄弟なのに何を言っても通じないという虚無感、12年間の密室生活からくる孤独感…。
キリスト教文化圏の欧米の人が後藤さんの話に感嘆したというのも、そういう境遇の中で信仰を貫いた、という点だと思います。
インタビューを読んで、後藤さんの人間としての素晴らしさを改めて痛感します。