アメリカで、どのようにして、拉致監禁がなくなったか? 一言でいうと、裁判闘争を通してである。しかし、アメリカでも、最終的に拉致監禁がなくなるまでに、20年以上かかっている。裁判でも、ディプログラマーに有利な判決がいくつも出ている。きょうは、数多くあるアメリカのディプログラミングに関する裁判の中で、大きな転換点となった、3つの裁判例を取り上げたいと思う。
★ピーターソン裁判
1976年、スーザンは21歳、同じ教団(The Way Ministry)の仲間のケビン・ピーターソンと婚約中であり、のち結婚した。1976年5月24日、スーザンは、彼女が通ってるムアヘッド大学で、お父さんと牧師が車で迎えに来た。スーザンの父は、成人した娘を、脱会説得者の家の小さい寝室に連れて行き、彼女は、彼女の意志に反して5月24日から5月31日まで監禁された。スーザンは、泣き叫びながら、開放を求めたが、彼女の願いは無視された。彼女の抵抗は、5月31日の朝3時頃まで続いた。この期間、スーザンは、ディプログラミングに協力しないなら、アノカ州立病院に収容させるための書類を準備している事を伝えらた。スーザンは、それ以来、抵抗をやめ、消極的な方法で、拉致犯の信頼を得るよう努めた。6月9日にリハビリのため、護衛付きでオハイオまで移動後、スーザンはすきを見て家を出て、パトカーに手を振って止めて、救出された。彼女は、二人の警察官に付き添われ、北東ミネアポリス警察管区に移送され、婚約者の父が迎えに来て自由となった。
民事裁判
スーザン・ピーターソンは、民事裁判を起こした。事件から2年後の、1978年2月17日には、ディプログラマー二人にに対し、合計、1万ドル(約100万円)罰金が言い渡された。
しかし、上告審である、ミネソタ州最高裁判所は、1980年に、次のように判決を下した。
両親や、両親の代理人が、成人した子供の判断能力が著しく欠いている状況のもと、彼ら(両親等)が合理的に信じられる宗教的、または偽宗教的カルトから子供の救出を模索する時、そして、子供が、ある段階で、その行動に対し同意を示すなら、子供の行動の制限は、不法監禁という判断を裏付けるため、個人の自由の重大な略奪の構成要素にならない。
ちょっと、分かりにくい文章であるが、もとの英文もこれと同じくらい分かりにくいものなので、ご了解いただきたい。要するに、「カルトから子供を救出する時、子供が一時期でも監禁に同意したら、子供の行動の制限は重大な自由の剥奪にはならない」というものだ。
後藤裁判では、被告たち、特に実行犯である、兄、兄嫁、妹たちがよく使う防衛理論でもある。「靴をはいて、バンまで移動したから、監禁ではない。継続して騒ぎを起こしていないから、監禁ではない・・・」などなど。弁護士さんたちは、この判決を勉強したのかもしれない。
結果
この判決は、ディプログラマーにお墨付きを与えたことになる。拉致監禁問題の解決にむけては、大きく後退した判決だった。
ピーターソン裁判関連の資料
http://www.lawnix.com/cases/peterson-sorlien.html
http://humanrightslink.seesaa.net/article/177968999.html
★エイラーズ裁判
ビルとサンディー・エイラーズは、「主イエスキリストの弟子」のメンバーだった。1982年8月16日、ビル(24)と彼の妊娠中の妻サンディー(22)は、サンディーの定期検診から帰ろうとしたところを拉致された。ビルは、二人の守衛に後ろから捕まれ、待機してあったバンに押し込められた。サンディーは、別のバンに入れられ、近くの宗教施設に運ばれた。ビルは、激しく抵抗したが、4人の男によって、寮のようなビルの最上階の一室に連れていかれた。ビルとサンディーは、別々に5日半監禁された。監禁が始まってすぐ、ビルは拉致犯とかなり激しくやりあったため、結果的に手錠をかけられベッドにつながれた。彼は、少なくとも、監禁のうち2日間は、手錠をかけられたままだった。監禁当初、ビルはトイレに行くときだけ、部屋から出ることが許され、厳重に監視が付いた。監禁中に、ビルは、暴力をふるわれ、こん棒で脅され、ディプログラムが完了するまで、監禁が続く、と言われた。その期間は、ビルは逃げることの自由はなく、脱走のいかなる手段もあり得なかった。
脱出
1982年8月21日の夕方、ビル・エイラーズは一時的刑務所を離れ、さらなるディプログラミングのため、アイオワ市に移送された。ビルは、脱走の最初の機会を利用し、乗っている車から、飛び降りた。監禁犯の一部は、彼を追いかけたが、住民が警察に通報したため、他は、警察沙汰になることを恐れ逃げた。しかしながら、ウィノナ警察は、ディプログラマー達を車ごと、取り押さえ。逮捕した。警察によって捕らえられた一人をのぞいて全員が、正式に刑事告発された。
刑事裁判
1982年10月7日、大陪審*が刑事事件における証拠の聴取を行い、「不起訴」の判決が出され、ディプログラマーに対してのすべての容疑は却下され、ディプログラマーは、潔白の身となった。
(*注:大陪審 the grand jury – アメリカの司法制度で、20名くらいの陪審員が、刑事事件の起訴が妥当なものかどうか審議し決定するもの。)
民事裁判
ビル・エイラーズがディプログラマー達に対し、民事訴訟を起こしたとき、被告人は、“憲法の表現の自由の権利を実践”するため行動しただけ" と主張し、"ピーターソン判決により、両親の代理人として責任は免除されているので、彼らが行った事に対する責任はない" と強調した。
裁判長は次のように判断を下した(1984年3月)。
被告が実際のところ、監禁されていたというのは、疑いの余地はない。ピーターソン裁判のミネソタ最高裁の判決をもとに、「原告は被告の行動に同意した証拠があるので実際のところ監禁はなかった」と被告は強弁している。それとは対照的に、原告は、少なくとも監禁の4日目までに逃走の機会を得る手段として同意したふりをしただけだと証言している。原告の見かけの同意は、不法監禁に対する防衛にはならない。多くの人は、似たような状況では、監禁犯への恐怖から、または、逃走の手段として、同意したふりをするだろう。
ビル・エイラーズは、損害賠償として1万ドル(約100万円)を勝ちとり、そして、それに加えて、家族と他のメンバーとは5万ドル(500万円)で、法定外で和解した。
結果
ディプログラマーたちを守ったピーターソン判決を無効にした判決内容だった。ピーターソン判決を覆すのに、5年かかったことになる。
エイラーズ裁判関連の資料
http://humanrightslink.seesaa.net/category/9257853-1.html
http://www.leagle.com/decision/19841675582FSupp1093_11486
★スコット裁判
1991年1月、ジェイソン・スコットへのディプログラミングは失敗したが、その時、彼は18歳で、国際ペンテコスタル教会の下部組織のライフ幕屋教会のメンバーだった。
1993年、刑事裁判で、主犯格のディプログラマーは、無罪放免となった。
1995年10月地方裁判所(民事)は次の決定を下した。
ワシントン西部区域のアメリカ地区裁判所の陪審員は、ディプログラマーのリック・ロスと彼のチームによる原告ジェイソン・スコットの誘拐は、スコットの市民権を侵害しており、そして、犯罪的過失であると決定した。陪審員は、87万5000ドル(約8750万円)を補償的損害賠償として、そして懲罰的損害賠償として400万ドル(約4億円)のスコットへの支払いを裁定した。(上告審は、その判決を支持した。)
結果
スコット裁判の判決が決定的となり、CAN (Cult Awareness Network = カルト警戒網)は破産し、アメリカの拉致監禁は終わることになる。
スコット裁判関連の資料
http://en.wikipedia.org/wiki/Jason_Scott_case
http://humanrightslink.seesaa.net/article/182858142.html
★まとめ
アメリカの拉致監禁の歴史をを語る上で、スコット裁判は逃せないところであるが、それまでの経過として、ピーターソン判決、エイラーズ判決がある。流れにすると次のようになる。
1980年:ピーターソン判決「カルトから救出の拉致監禁は、ある条件下で許容される」
↓
1984年:エイラーズ裁判で、ピーターソン判決が覆される。
↓
1995年:スコット裁判での、決定的判決
ディプログラマーにお墨付きを与えたピーターソン判決から、拉致監禁を終結させたスコット判決まで、15年かかったことになる。1970年代初期から始まったアメリカの拉致監禁は、解決までに20年以上かかったことになる。今でこそ、アメリカは、国務省の発行する国際宗教自由報告書等で、拉致監禁を重大な宗教の自由への侵害と考えているが、1970年代、80年代は、決してそうではなかった。
エイラーズ裁判、スコット裁判とも、刑事裁判では、原告側(拉致監禁被害者)の主張はほとんどまったく認められていない。しかし、それをひっくり返したのは、民事裁判である。
尚、アメリカの裁判の模様は、「国境なき人権」の「日本:棄教を目的とした拉致と拘束」の、「第三章:強制棄教を目的とした拉致と拘束、国際法の立場」でも、簡潔にまとめられている。
日本では、どのような裁判の歴史を通過してきたのか? これは、また次回に。
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「被告が実際のところ、監禁されていた
というのは、疑いの余地はない。」
エイラーズ裁判の判決は画期的でした。
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「カルトから子供を救出する時、子供が一時期でも監禁に同意したら、子供の行動の制限は重大な自由の剥奪にはならない」
これでは監禁しても、反対の思想を持つように洗脳してしまえば、それでいいってことになりますね。
↓
「被告が実際のところ、監禁されていたというのは、疑いの余地はない」
後藤裁判においても、然りです。疑いの余地がありません。
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「スコットの市民権を侵害しており、そして、犯罪的過失であると決定した。陪審員は、87万5000ドル(約8750万円)を補償的損害賠償として、そして懲罰的損害賠償として400万ドル(約4億円)のスコットへの支払いを裁定した」
懲罰的損害賠償4億円!。これは強烈。拉致監禁を終焉させるには、これだけのインパクトが必要なのかも。
この判例が後藤裁判に影響することを祈ります。
日本では「懲罰的損害賠償」という話はあまり聞きませんので、徹さんが被った実質的な損害賠償のみが求められると思いますが、12年5ヶ月も閉じこめられ、餓死寸前まで追いやられ、婚約も破棄させられ、一部上場企業の職も免許も剥奪されたりしたわけですから、数億円の賠償はすべきでしょうね。
個人的には、再度、刑事訴訟を起こして、宮村、松永を刑務所送りにしてやりたい気持ちが強いです。
いずれにしても、拉致監禁の根絶には、宮村、松永がウソをついたことを認め、洗いざらい犯行の一部始終を話して改心するまで、そして、山口、紀藤、渡辺弁護士が謝罪会見をし、それをマスコミが報道するまで、闘い続ける必要があるように思っています。