ちょっと、文字が小さく(画面を大きくすると、ぼやけて)見づらいかもしれないが、次のグラフは、1966年以降の拉致監禁件数の推移である。1966年から始まった拉致監禁は、1976年から急激に上昇に転じ、1990年代はじめをピークに、そして、90年代半ば(94年〜96年)に激減、1998年以降は、継続的な減少傾向である。このグラフは見づらいけれど、その増減の状況だけでも感じて欲しい。
このグラフは、ICRF のウェブサイト http://www.religiousfreedom.com/PDF/Japan/Goto/6.%20History%20of%20Religious%20Kidnapping.pdf のデータを基(もと)に、エクセルに入れなおして作成した。ICRF(International Coalition for Religious Freedom = 国際宗教自由連合、代表 = ダン・フェファーマン)は、統一教会系団体。(件数については、"見積もり" だと理解している。特に1987年までの期間で、10の倍数が続いている部分があり、その期間は、大雑把な数字の可能性あり。)
1988年以降の拉致監禁の動向
上のグラフは、少々見づらいので、アメリカ国務省の報告書の出る10年前、すなわち1988年以降の推移をグラフにすると次のようになる。
突出しているのが、1992年と1993年の2年間と、その前後の期間である。93年には、山崎浩子さんの退会が報道された年である。最盛期には、平均して、一日に一人、日本のどこかで、強制改宗のため、拉致監禁されていたということである。
1990年代半ば:拉致監禁被害者の証言が書籍に
1994年には、前年の半分近くまで減少している。この年の4月に、拉致監禁被害者の鳥海豊氏の『監禁250日証言「脱会屋」の全て』(光言社)が出版されている。さらに、1996年には、拉致監禁件数は、前年の3分の1近くなっている。この年の11月には、同じく拉致監禁被害者の小出浩久医師の「人さらいからの脱出」が発行されている。
94年と、96年に、拉致監禁件数が、大幅に減少した理由は、他の様々な要因もあると思うが、これらの書籍も少なからぬ影響があったものと考えてもいいだろう。この時代は、現在のインターネットなど、一般の人々には、想像もできなかった時代だ。PCなら Windows3.1の時代から、そして Windows95 が普及し始めた時代だ。今なら、ブログで情報は広がるが、当時は書籍とか、雑誌ということだろう。
そして、1998年には、件数は多少増加するが、それ以降は、長期減少傾向となり、現在に続いている。その年1998年の10月に、クリントン大統領が「宗教自由法」に署名し、アメリカ国務省が、「国際宗教自由報告書」を毎年まとめることになり、その初版が、その翌年、1999年9月9日に発表された。
2000年前後:雑誌記事、米国務省報告書、国会での質疑など
1999年9月別冊宝島『救いの正体』で、ルポライター米本和広氏が、「ドキュメント救出」を発表、拉致監禁・強制棄教に対する問題を提起した。その記事は、拉致監禁グループの間で、ハレーションを生む(我らの不快な隣人 P300〜 or このリンクで)。「ドキュメント救出」は、その後、宝島社「教祖逮捕」(2000年2月)と、宝島文庫の「救いの正体」(2008年6月)に収録された。
ちなみに、ルポライター米本和広氏は、2004年に、月刊現代2004年11月で、『書かれざる「宗教監禁」の恐怖と悲劇』を発表し、2008年7月の「我らの不快な隣人」の発刊へと進んでいく。
1999年9月9日には、その前年に成立した「国際宗教自由法」により、最初の国別報告書が発表された。日本に関する報告の中の約9%が、拉致監禁問題のために、使われれている。
2000年3月号〜8月号において、宗教ジャーナリスト室生忠氏による「知られざる『強制改宗』めぐる攻防」が、月刊「創」(つくる)で連載され、 信教の自由と、人権擁護の立場から、大手メディアが決して語らない「拉致監禁・強制棄教」の実態を明らかにした。
2000年4月24日、衆議院議員 桧田 仁(ひのきだ じん)氏(当時)が、衆院決算行政監視委員会第3分科会において、警察庁長官等に対し、アメリカ国務省の国際宗教自由報告書を引用し、また、鳥取教会襲撃事件(富澤裕子の拉致監禁)など、具体的な事例を出しながら、拉致監禁問題に対して質問した。
これらの動きは、1998年以降の、拉致監禁の長期減少傾向を方向付け、それをサポートしたものといえると思う。その減少傾向を、決定付けたのは、拉致監禁の犠牲者たちが、自ら声をあげた民事裁判である。以下の通りである。
2000年前後:拉致監禁 民事裁判
国務省の2007年度報告書(報告期間:2006年7月1日〜2007年6月30日)で、拉致監禁に関する記述がなくなる。そこを、分岐点として、その前(前半)と、その後(後半)に分けたいと思う。今回は、前半を扱うことにする。後半というのは、また別の記事で扱うが、後藤徹氏が12年5月の監禁から解放されたその後のことが中心となる。
国務省報告書には、全般的な情報を掲載しているだけで、具体的な内容は含めていない。その国務省の報告書に出てくる関連情報を集めてみた。
富澤裕子(ひろこ)、統一教会
1997年6月7日:鳥取教会襲撃事件(富澤裕子が拉致監禁される)
1998年8月30日:徳島県鳴門市、大阪市内での監禁後、拉致から1年3ヶ月後、脱出
1999年5月11日:裕子が、両親と高澤守牧師を民事提訴
2000年8月31日:鳥取地裁 原告勝訴。被告控訴。
2002年2月22日:控訴審判決(広島高裁)、原告勝訴、確定。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/ratikankin/101008.html
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/hiroshima-ks.html
主婦、エホバの証人
1995年7月11日:主婦が、夫により兵庫県内山荘に17日間、監禁され、脱会を迫られる
1999年1月4日:主婦が草刈牧師を相手取り民事提訴
2001年3月30日:神戸地裁、原告勝訴、両者とも不服として控訴
2002年8月7日:大阪高裁、双方の控訴を棄却、一審の判決が支持される
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/ekoba-kosai.html
美津子アントール、統一教会
1998年5月16日:2度目の拉致、そして72日間、監禁。(一度目は 1996年5月20日〜8月10日)
1999年2月12日:美津子、夫のクリス*と共に、清水与志雄牧師、両親を民事提訴。
2002年3月8日:第一審(東京地裁) - 原告敗訴
2002年12月26日:第二審(東京高裁) - 原告の上告請求棄却
2003年1月8日:美津子原告、最高裁へ上告するが、のち棄却
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/mituko-1.html
*夫であるクリス・アントール氏は、 Unification Theological Seminary(統一新学校:統一教会系神学大学院)で、2002年12月、卒業論文として、 "State Support of Persecution against the Unification Church in Japan" (日本における統一教会迫害に対する国家の関与)を提出している。尚、クリス氏は、当時のオルブライト国務長官に手紙を書き、アメリカ国務省に事件の調査と解決を依頼している。
寺田こずえ、統一教会
2001年10月29日:大阪市内に66日間、拉致監禁される。
2002年4月30日:高澤守牧師、尾島淳義牧師、両親を相手取り民事提訴
2004年1月28日:大阪地裁 - 原告勝訴
2004年7月22日:大阪高裁 - 原告勝訴
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/terada-1.html
http://suotani.com/page/4
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-319.html
http://humanrightslink.seesaa.net/article/218200741.html
今利 理絵(いまり りえ)、統一教会
1997年1月:拉致、5月まで監禁される
1999年1月:理絵と夫が、清水与志雄牧師、黒鳥栄牧師、両親ら合計8名を民事提訴
2004年1月31日:原告の訴えを棄却、原告上告
2004年8月31日:東京高裁、一審判決を支持。原告、最高裁へ上告。
2006年3月23日:最高裁和解勧告
http://www.worldtimes.co.jp/special2/ratikankin/110223.html
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/imari-wakai.html
以上、エホバの証人を含めて、5件の裁判を紹介したが、いずれも、拉致監禁は、1990年代(一部 2001年)、そして民事裁判の判決は、2000年代前半となる。これら5件の拉致監禁事件、そして裁判は、アメリカ国務省が「国際宗教自由報告書」を出し始めた、1999年の時期から、2006年あたりまでの報告期間と一致することになる。
当然ながら、国務省のレポートは、それらの裁判の経過・結果も参考にし、言及しているが、エホバの証人の裁判は1件だけなので、どの裁判かはすぐに分かるが、同じ時期に、統一教会の裁判は、場所は違うけれど、複数が同時進行しており、よっぽど、熱心に研究し、すべてを記憶してない限りは、誰の裁判だったのか、頭が混乱してくる。
逆に、国務省レポートを読んで、(このブログ記事を読まないで)「これは、今利裁判、これは富澤裁判」とか、言えるのなら、かなりの熱心な研究家か、活動家だと思う。次回は、国務省の報告書をじっさいに引用しながら、その特徴をみていきたい。
5件の裁判、私自身、あやふやなことばかりでした。、
少し、頭の中が整理された気持ちです。
5件の裁判は、現在の後藤裁判に繋がる裁判です。
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- ◆アメリカ国務省:2009年版世界の宗教の自由についての年次報告書
このことは知りませんでした。これが結構、インパクトを与えたのではないでしょうか。