日本滞在の3週間の間、できるだけ多くの拉致監禁問題に関わっている人々に、面会を求めた。約20名くらいだった。これらの人々は、立場の違いはあれど、拉致監禁反対の人々だった。
一方の人々だけに面会しても、不公平なので、保護説得をしているという牧師にも会いに行ってきた。
私の地元、岡山には、有名なT牧師がいらっしゃる。正確にはT牧師の教会は、倉敷市にある。岡山から瀬戸大橋線で四国に向けて、20分くらいのところに茶屋町という小さな町がある。ある水曜日の朝、その町の、T牧師を訪ねてみた。失礼だったかもしれないが、電話でのアポはなく、いきなりの訪問だった。駅から、T牧師の教会までは歩いて10分くらいだった。
私の目的は、何か論議をふっかけようとか、そんなことではなく、私の誠意をもって、私の考えていることを説明したかったし、T牧師が保護説得に対して、どのように感じていらっしゃるのか知りたかったからである。
T牧師の教会の前には、片側1車線の、田舎でよく見るような道が通っていて、その向こうには、道路と平行して小川(と、いうか多分、農業用水)が流れていた。教会の周辺の道路に沿って、薬屋とか、パン屋とかあり、教会は、その道から30メートルくらい奥まったところにあった。
ベルを2回ほど押した。中から、男性が出て来た。
「T牧師でいらっしゃいますか?」「はい、私ですが。」
「はじめまして。電話してくればよかったんですけど、いきなりで申し訳ありません。私、xxと申しまして、元、統一教会員です。もう、それも、20年以上前の事ですけど。実は、T牧師は、カルト問題に詳しいと聞いてまして、いろいろとお話をお伺いしたいと思いまして・・・・」
「どうぞ、中へお入り下さい。」
と、言われ、応接間に通して頂いた。これなら、お友達になれるかもしれないと思った。もう、一度、ゆっくりと自己紹介をした。多分、私が、実家が岡山で、今はオーストラリアに20年くらい住んでいることも言ったと思う。で、牧師に問いかけた。
「ところで、牧師、統一教会員に対する保護説得という言葉をよく聞くんですが、保護説得というのは、本当に行われているんですか?」 その後、ちょっと、沈黙があったような気がするが・・・
「あなたが、どういう立場の人か、わからないので、お話しすることはできません。」
「いやー、あのう、私は、元統一教会員で、現在は、統一教会とは一切関係はなく、私にとっては、その教会のことはどうでもいいことなんです。ただ、最近、インターネットを通じて、統一教会員に対しての保護説得が行われているということを読んだりして、私は、保護説得は人権侵害ではないかと思うようになりました。」
「そういう事でしたら、お話しできません。お帰り下さい。」
「東京で、後藤さんという人が、10年以上、監禁されていたという事なんですが、本当ですか?」
「後藤さんは、私とは関係がありません。お帰り下さい。」
「そうですか、それは、残念です。せっかく、いいお友達になれると思ったんですけど・・・」 と言って、応接間を出て、靴をはいて、「きょうは、本当にありがとうございました。」と、お別れをした。
牧師は、ドアの脇に立って、私の姿が見えなくなるまで、見送ってくれた。(と、いうか、もしかしたら、私が、迷子にならず、ちゃんと駅の方向に帰るように、見て下さっていたのかもしれない。)しかし、お顔を拝見だけで幸せだったのに、応接間まで上げて頂き、すごく感謝している。
拉致監禁の被害者も含めて、拉致監禁の反対運動をしている人にも、たくさんコンタクトしてみたが、皆さん、快く対応してくれ、私の失礼かもしれない質問や、昔の事を思い出させてしまうような質問にも、答えて頂いた。
今回、実際、面会できた保護説得の牧師さんは一人だけだったが、みんな、こんな感じなのだろうか? 「牧師さん、もっと話してくれてもいいんじゃない?」って思ってしまった。
東京拘置所の宇佐見さんに2回ほど、差し入れをしてきた。私の昔からの友人に会うと、だいたいこんな会話がある。「今回は、どこか行きましたか?」「えー、実は、私の知人が、東京拘置所に拘置されていて、面会に行ってきました。ストーカー容疑なんです。」で、だいたいの人は、もっと話を聞きたい様子なので、その話を、統一教会の結婚式、拉致監禁までさかのぼり、不当逮捕であると説明した。裁判とか法律に詳しい友人は、「何で、ストーカーで逮捕なの?」と聞いてきた。今後、その件がニュースで流れれば、彼らは、「あー、あの事か?」と、思ってくれるはずである。
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<私は、保護説得は人権侵害ではないかと思うようになりました>
わざわざ、保護説得をやっている牧師を訪ねて行って、名前を名乗って、堂々とご自身の考えをぶつけられるとは…。
その勇気に敬服いたします。
関わるだけで、何されるか分からないし、下手をすると「どこどこの誰々は統一教会の○△だ」とレッテル貼りされ、社会から排除するような攻撃を受けかねないのに…。
本当に感銘を受けました。
“保護説得”牧師がコソコソと悪事をやっていることが浮き彫りになったような気がします。
改めて、Yoshiさんの行動と主張に賛同いたします。
記事中に書かれているT牧師のスピーチがキリスト教新聞に載っていました。これまた実に興味深い記事です。
http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/556
米本さん、情報ありがとうございます。
http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/556 で、高山牧師は「カルト問題に関わる救出カウンセラーの高齢化」を心配しています。
私は、これまで被害を受けた人たちの残りの人生や、その被害者を拉致・監禁するよう牧師さんたちに教育され、その通り行った被害者の両親の高齢化が心配になります。牧師さん達には、考えも及ばないことでしょうね。
>私は、これまで被害を受けた人たちの残りの人生や、その被害者を拉致・監禁するよう牧師さんたちに教育され、その通り行った被害者の両親の高齢化が心配になります。牧師さん達には、考えも及ばないことでしょうね。
おっしゃる通りです。改めて気づかされました。
高山さんは確か70歳過ぎ。拙著『我らの不快な隣人』の主人公の宿谷さんの母親は古希、父親は喜寿となりました。今年は拉致監禁事件から16年後。幸い、親子関係は完全に修復されました。
その一方、両親とは実質縁を切られた教会員(当時青年、今中年)の場合は深刻です。
彼は最近、五番街のマリー♪ではないけど、両親の姿を遠くから見たいと実家のあたりをうろつきました。
すると、監禁時にはとても元気だった父親は車椅子姿。
「父さん!」と声をかけたかったそうですが、父親が驚いてショック状態になるのではないかと心配し、自制したそうです。
高山さんは最近、保護説得のあり方を変えなければならないと考えていらっしゃるようですが、その前に、保護説得が何をもたらしたのか負の部分を調べるべきだと思います。
年老いて、保護説得から足を洗われる前に!
そうしないと、黄泉の国に旅立たれるときに、怨念の親子・亡霊に邪魔をされて、とても天国に辿り着つことはできない。信仰心がない私ですが、そう心配しています。
ご無沙汰しております。
先日はお会いできて良かったです。
Yoshiさんの行動力には私も感服しております。
荻窪-松涛WALK、高山牧師訪問、さらには、宇佐美さんに2回も差し入れをしてくださったとか。いろいろありがとうございます。
Yoshiさん、米本さんと同様私も、被害者を拉致・監禁するよう牧師さんたちに教育され、その通り行った被害者の両親の高齢化が心配になります。
幸いにも私は親子の断絶を免れました。一昨年なくなった父の最期も看取ることができました。父は晩年は要介護状態でした。ベットから車椅子に移動させることも大変な作業で、年老いた母は、本当に介護に苦労していました。
時折、私も父の介護を手伝いに行きました。もし、私が拉致監禁により、親子断絶状態になっていたらと思うとぞっとします。
私の知り合いにも、実家に怖くて帰れない人が何人かいます。
拉致監禁によって植えつけられてしまった恐怖心というのは簡単にはぬぐえないものです。親を恋しく思う情よりも、恐怖心のほうが大きくいかんともしがたいものがあるようです。
"保護"説得推進派の皆さんは、保護説得に駆り立てられた親御さんの老後をどのように考えていらっしゃるのでしょうか?脱会に成功したとしても親子の関係が悪化することだってあるんですよ。
高山牧師も、"保護"説得が人権侵害だと言われたからって、せっかくたずねてきてくれた人を追い返すことはないのではないですか?
信念をもってやっているのであれば、"保護"説得は正しいと説明すればいいだけのことじゃないですか?心の狭さを自らのブログで告白しているようなものだと思います。
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2011-09-21 Wed 8:55pm
なんと言いましょうか、私が4月に日本に帰省した際に、おたずねした倉敷の高山牧師のことが大きく報道されてますね。「兵庫通信」という、地方紙らしいんだけど、Googleで検索しても、よくわかりませんでした。
よくわからない新聞だからと言って、油断は出来ませんよ、牧師さん。だって、だいたいホントの事じゃないんですか?拉致監禁牧師にとっては、恐ろしい時代がやってくると思いますよ。何十年も、人前で正々堂々と言えないことをやってきて、そのまま、歳をとって死のうなんて(そして、天国に入ろうなんて)都合良すぎますよね、牧師さん。
http://kidnapping.jp/pdf/hyogo.pdf
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2011-09-25 Sun 11:00am
>@aritayoshifu >有田芳生>「統一教会の御用ライター」と私が評価してきた米本和広さん。このところ教会の献金システムを信者情報に依拠して批判しはじめた。ご自身のバランス感覚を矯正しているのだろうが、悲しいことに反統一教会陣営だけでなく、教会幹部たちも怒りだしている。米本さんの教会「批判」には立場がないからだ。 この段落、パラダイムシフトのノボリーキさんのコメントより引用。 あと、米本さんの「火の粉」ブログでも、アジュマさんが引用されています。
この手の人たちから、「立場」というのを聞くのは2回目だ、ということを、今、思い出した。
1回目は、倉敷の高山牧師を訪問(2011年4月)して、脱会説得について聞いた。すると、「あなたがどのような立場の人か分らないので、お話出来ません。」との事だった。で、私が、自分の立場を説明すると、「そういうことでしたら、お話しできません。お帰り下さい。」と言われてしまった。このグループの人たちには、立場がすごく大切なようだ。同じ立場の人とは話が出来て、違う立場の人とは、そうではない。何か、堅苦しい人生で、ストレスがたまりそうで、僕には決してできない。
有田氏の上記のコメントは、はっきり言って、意味がよくわからない。自分の思考方法でしか、他を判断できないのだろうか?統一教会を批判するには、自分と同じ立場(拉致監禁容認+徹底した反統一教会)でないと、その批判は受け入れられないのだろうか?有田さん、ちょっと視野狭すぎ。
批判もして、そして統一教会が社会から受け入れられる宗教団体になる(統一教会が存続できる)ための提言もあってもいいのでは。こちらの方が、より責任のある批判の方法だと思う。